会長インタビュー#1:創業60年を超えたパッケージ会社の創立
はじめに
創業者の古橋敬互会長は1937年、「郡上おどり」で有名な岐阜県郡上市の山間で農家の6人兄弟の5人目、次男として生まれました。地元の高校を卒業した18歳の春、就職のため柳行李*一つで大都会名古屋へ。その後どのようにして現在の「株式会社フルハシ(オリジナルパッケージ.com)」を築き上げたのか。
その経緯をエピソードを交えながら対談形式で3回に分けてお届けします。
※参加者は株式会社フルハシ(オリジナルパッケージ.com)より、古橋敬互会長、森、糸魚川、聞き手を株式会社マインドファクトリーの中西様にお願いしました。
*柳行李(やなぎごうり):柳で編んだ箱形の入れ物。現代のトランクのようなもので、主に旅行や引っ越し、商売道具などの荷物を運ぶときに使用された。
生い立ち
中西(マインドファクトリー):早速ですが、まずは生い立ちから伺わせてください。
会長:実家はね、百姓をやっていたんだけど、6人兄弟の5人目だったから百姓をやれる訳でもないしさ、別に好きでもなかったから、就職を考えて郡上高等学校の商業科に入ったんだわ。当時は周りも農家が多かったから、農林科が主流だったけど、僕は家業を継げるわけじゃないでしょう、だで就職に少しでも有利になればいいと思って、できたばかりの商業科に行ったんだわ。僕が3回生だったね。
中西(マ):その当時からパッケージのことを考えていたんですか?
会長:いやいやまだまだだよ。とにかく簿記の2級を取ってさ、田舎で就職難だったからね、学校の先生が就職しろと紹介してくれて名古屋の西区菊井町のセロハンの会社に入社したんだわ。今はないけど、当時は10軒くらいセロハンの会社があって、その中の一つに入って1955年(昭和30年)3月1日に名古屋に来たんだわ。何も仕事のことなんてわからんかったよ。学校から紹介されて何を選ぶってこともなくさ、そういうご縁でね、古いセロハン屋さんに入ったね。そこでとにかく簿記をやっとったわ。
社会人と悔しさの経験
会長:今も名残があるけど、名古屋の菊井町あたりは菓子屋さんが多くてね、セロハンもお菓子を包むのによく使われたから当時は繁盛していたんだね。僕がしたのは簿記の仕事だったけど、それが全ての始まりだったね。
特に当時は菓子業界が盛り上がっていたからね、そういったセロハンの会社から独立する人も多かったわ。そういう人はヤル気もあってね、それがすごく頑張ってるもんだから、同じところに営業に行っても売れやせんし、仕方ないよねってなってたんだよ。地場産業と一緒でね。だから僕がいたセロハン会社は菓子業界はやめて、靴下とか繊維に絞ってみたわけ。そんなことをやってたんだけど、靴下では商いは小さいんだわ。大体うまく回って、袋とシールとレッテル(ラベル)がピシッと決まっても、今で言うと1件20万〜30万円だったねぇ。
当時、僕の給料が3000円だったかな。そこから天引きで毎月500円、年間だと6000円を会社で貯金しとったんだわ。それでさ、その天引きされていたお金が手元からなくなったんだわ。そんなことはあってはいかんことだけどほんとに悔しかったね。
一同:えー!? どうしてそうなったんですか。
会長:会社が倒産しちゃって返ってこんかったんだわ。
中西(マ):それはめちゃくちゃ悔しいですね。
会長:その悔しさはね、やってはいかんというふうに僕は認識しているんだけれども、涙の出るような思いだったねぇ。当時の1ヶ月分の給料くらいは毎年引かれとったわけでしょう。苦しかったというか、そういう体験をしたから人生はそうあってはいかんなと思っとるわけ。だから人様に迷惑をかけてないということ、倒産というのは自分だけの問題じゃなくてね、会社に勤めておる人、周りにも本当に困ることだよ。何より当時の500円は尊い金額だわ。住み込みだったしねぇ。
株式会社フルハシの始まり
森:会社が倒産して、それからすぐ独立したんですか?
会長:そうだね、34年の6月だわ。会社は倒産しても、もう一度やるつもりだったらしいんだけど、結局できなかったんだわ。でも市場もまだまだあったし、お客さんはいたし、どうしようっていう時に2人の人が「せっかくこんなお客があって廃業するのも勿体無いから、後押ししてやるからやってみんか」って協力してくれたんだわ。それがきっかけ。
それから4ヶ月くらいは、お金もなかったから在所(会長の実家)が百姓だったもんでお米だけもらってね、なんとか凌いでたわけ。助けてくれた2人にはお酒もただで飲ませてもらったねぇ。始まりはそんなもんだわ。
中西(マ):この時にセロハンではなく、お菓子の包装会社にすることを考えたんですか?
森:最初は古橋紙店って言ってなかったですか?
会長:一番最初は「丸得紙業」って名前でちょこっとやってたね。願掛けみたいなもんだわね。その後に自分の名前に変えたね。
糸魚川:今でこそカタカナの社名は一般的ですが、「フルハシ」になったのはいつからですか?
会長:かれこれ50年くらい前だったかな。「古橋包装紙店」って漢字でやっとったんだけど、長すぎるし、段々時代の方向も変わってきたから、「フルハシ」にしたの。そこだけは時代を先取りしとったね。
会社の成長
会長:でもねぇ、これは本当に社会のおかげ! 何にもわからなくても僕を助けていただいたっていうだけなんだよね。うちがこれだけの形になったのは、縁があってね。今のユニー、昔は「ほていや」さんって言ったんだわ。
森:「ほていや」っていう屋号の呉服屋さんだったんですよね。
会長:そうそう、ユニーは昔呉服屋さんだったの。そこが食品をスーパーをやるということで、その時に食品の包装資材とか肉とか魚のトレーを納入させていただくようになった。それが会社の成長として、最初の大きなきっかけになったね。
当時の重役の奥さんがスーパーとして独立させた会社でね。ここの3階に(現フルハシの本社)3年か5年だったかな、「ほてい物産」の名前で貸して、月30万くらいだわ。仕事の情報を譲渡しながらうちはそこから脱皮して、ほていやの仕事をゼロにしたの。これが僕のセンス。
だからね、社会というのは広いと言えば広いしさ、そういう意味では有り難たいなと思うわけ。助けてもらうことが多かったね。
糸魚川:繋がりが大切ですね。
会長:そうだね、やっぱり真面目にやることだなと思う。それから今はもうやられていないけど、ラムネを作っている会社にすごくお世話になったね。そこの方にものすごく怒られてね、厳しかったんだよ昔は。ははは。それでも真面目に取り組んで、対応してきたからこそ、その人に教えてもらったことがある。それは今でも自分の心に残ってて、一番感謝している。
森:何でそんなに怒られたんですか?
会長:遅けりゃ遅いでこっぴどく叱られたわ。セロハンでもね、ラムネは色とりどりだから5色ずついるの。その5色合わせて断裁してくんだわ。当時その断裁の仕事が僕だったの。それが量もあったし大変だったけど、あの人が一番心が広くてね。「古橋くん、段ボールできるなら、うちがよそで買っとる値段でやれんか」と言われて「〇〇円で買っとるでその値段でやれるんだったらもってきゃあ(もってこい)」と言って、そういう温かい心もあった。だでね、真面目にやっとれば救いがあるなと思ったし、本当に感謝してるね。
中西(マ):最初のセロハンから全部繋がってきますね。
会長:そうそう。今ではね、セロハンは無くなっちゃってOP(二軸延伸ポリプロピレン)やCP(無延伸ポリプロピレン)に変わってきちゃったけどね。色でもそういう意味では印刷して出せるようになったけど昔は色セロハンっていうのがあってそれがパッケージのバリエーションというか、色の全てだったね。
印象に残る仕事のハナシ
会長:そうそう、不謹慎だけど時の運だなぁって思った仕事があったんだわ。伊勢湾台風の直後の頃だね。その時に蟹江に大きなセロハン会社があったの。そこが台風で水に浸かっちゃってセロハンも同じように水浸しになっちゃったんだわ。それでその当時で言うと、セロハン1連が4000円くらいしたのかな? それを300連くらい買って、岐阜の郡上に持ち帰って1枚1枚剥がして、くっつかないように粉つける内職をして売れる状態にしたんだわね。だで1ヶ月に1回くらい、そのきれいにした状態のものを配達の人に郡上まで取りに行ってもらっとったんだわ。
そんでね、伊勢湾台風の影響があったところはどこも1番安い時は訳ありで、300連買うと1連500円くらいだったの。で、買い占めたはいいものの、慌ててそれをどこに売ったらいいか骨折って考えてさ、食品以外にも目を向けたわけ。でね、円頓寺や一宮の商店街とかそういったところにも一生懸命売り歩いたの。
森:アイディアですね。
会長:まぁ、応用しただけだけどねぇ。その当時は1連単価が高かったからね。それを1枚ずつにして、使えるようにしてね。どんなきっかけであろうと商品にするって、それがまぁ一番利益になったね。
森:この3階建ての倉庫もセロハンで建てた?
会長:これはねぇ、段々そうやっとるうちにって感じだねぇ。ユニーさんとの仕事が始まってから、食品トレーをやっとるでしょう。かさばるもんでスペースが必要だった。それで3階までできたんだわ。
創業から今の会社の母体ができるまで
中西(マ):創業からここでやっていたんですか?
会長:創業はまぁそうだな。浄心の近く(花の木)の六畳一間のアパートでやっとったわ。ある商社が綿花をやっていて、その倉庫を間借りしてね。そういう人の繋がりっていうのは尊いし、ありがたいわね。そういう善い苦しみでねぇ、生かさせていただいたということと、やっぱり自分がまず健康だったことが一番宝だったね。そんだけだわ。
悔しさはまぁ比べなわからんけどありがたいことと、喜びと、できないことに対する悔しさとみたいなものはね、相当自分に厳しくしているつもりです今でも。仕入れ先さんでもね。
今はおかげさまでどこに売り込んでもまた営業させてもらえるからありがたいし感謝してるけど、一番やってきて悔しかったのは、間に合わなかったことだね。間に合わんというより、金がなくて売ってもらえなかったこともあるし、こっちに力がなかったからねぇ。そういう苦しさはいっぱい味わってきたね。
でもそれが楽しかったし、僕の生き方なの。ははは。
中西(マ):すごいです。それがあっての今ですもんね。
会長:そんだで、社会に感謝しなかんね。どこでご縁があるかわからんし、何があるかわからんでねぇ。今じゃね、社員さんもよくやってくれているし。(普段ねぇ、恥ずかしいもんでよく言わんけど。と、少し照れた会長。)
中西(マ):創業したからこそ知れるというか、味わえる経験ですよね。
会長:そうだね。サラリーマンとはやっぱり違うかもしれない。それで得た喜びは比べていうことではないけれどね。やっぱり一生懸命やって、周りに感謝していくことだね。それでもね、僕はやっぱり商売が下手なんだわ。
中西(マ):そうなんですか??? こんなに大きくなってるのに?!
会長:(冗談混じりに)百姓はいいけどよぉ、商売は下手だわ。
森:え〜、逆じゃ無いですか! 商売下手なんですか?
会長:ははは。だけどみんな社員がね、一生懸命やってくれるでそういう点では心強いし、本当みんなよくやってくれるんだわ。それから僕のところからは2人独立したね。彼らについて行ったお客さんもそのままつけて出しちゃったわ。
中西(マ):それはだいぶ太っ腹ですね!
会長:逆にいうとね、それだけ市場が広いってことだわ。それにいくら市場が広くても、結局後は自己努力だから。儲けるっていうのはまず当たり前のことだけど、食べていけるところまでは責任持ってやらないかんし、独立してお客さんを連れていったとしても、結局は努力だでね。僕のところは森くんや糸魚川くんもいてくれるけどね、そうやって社員さんが一生懸命やってくれることに感謝してる。
あとは僕はそういうことがあっても大丈夫なように組織にするのが夢だったの。変な言い方になるけど、役職なんかをつけておくと誰でも代わりに入れてという体制ができるでしょう。そうすることが会社の安定につながるから、それまでは頑張らないかん。僕は最初の会社で倒産を経験して、本当に困ったからね。個人ならね、やり方もあるけど食べていければいいの。だけど、いかに安定した経営ができるかを経営者は考えないといかんのだわ。
中西(マ):会長が一番社会に貢献したなと思った仕事はなんでしたか?
会長:何がということはなくてね、基本は真面目にやることだよ。どんな仕事でも結局同じだわ。信じて信用されて、信用第一という言葉は今も昔も変わっていないと思う。誰を疑うってことではなくて、まずは自分が一生懸命認めて頂けるように、己でムチ打って、繰り返し仕事できることが大きくなっていくだけ。安定してきちんと会社を回すことが結果として社会貢献になっとると感じるようになったね。だから今、僕が敬老パスとかさ、社会的福祉を受けてても本当にありがたいなと思うね。当時は考えられんかったもん。ははは。
#1 まとめ(株式会社マインドファクトリー 中西様の感想)
終始にこやかな雰囲気で話してくださった会長。始まりからとても丁寧に話してくださり、きっかけやチャンスを掴むことにとても長けている方なんだなと思いながら、こちらも楽しくお話を伺うことができました。会社を大きく成長させただけあって、会長は話し方が上手く、ストーリーにすっかり引き込まれてしまいました!
また、様々な経験をしたからこそ滲み出る「信頼」や「真面目」といった言葉が印象的で、現在の株式会社フルハシ(オリジナルパッケージ.com)にもそれがとても色濃く残っているなと感じるお話でした。
この話の続きは下記のリンクよりご覧いただけます。会社を大きくするまでの仕事のエピソードを熱く語ってくださっているだけでなく、会長の素晴らしいパッケージ愛も見て取れるので、ぜひご覧ください。